エディット・ピアフ27歳〜ユダヤ人作曲家との戦火の恋、運命のメロディーPadam Padam
稀代のシャンソン歌手、エディット・ピアフ。 本名はエディット・ジョヴァンナ・ガシオン。 1915年12月19日、彼女はパリ20区の貧しい地区ベルヴィル街で生まれた。 父親は大道芸人で、母親はカフェや酒場などで歌う歌手だった。 幼少期は孤独で、親戚から親戚へと転々とし、祖母の経営する売春宿で育てられた時期もあったという。...
View Articleジョージ・ジョーンズ〜ディランもキースも愛した史上最高のカントリー歌手
人生には様々な試練と直面する機会がある。人は愚かにもそれを繰り返す。あるいは避けられない出来事も用意されている。しかし、逆境を糧にし、どこかにささやかな希望を見い出して、人はそれでも生きて行こうと決意する。カントリーミュージックの世界も例外ではない。 一生いつも何かから逃げ続けているようだった。...
View ArticleHARRY(ザ・ストリート・スライダース)27歳〜その音楽ルーツ、作曲スタイル、日本語で歌うことへのこだわり
HARRYこと村越弘明は、1980年代〜90年代の日本のロックシーンにおいて大きな足跡を残した伝説の4人組THE STREET SLIDERS(ザ・ストリート・スライダーズ)のヴォーカル&ギターであり、バンドにおいて大半の楽曲を作詞作曲した男だ。 彼は27歳の時に、ある意味バンドの黄金期とも言えるブレイクポイントを迎え、初の武道館公演“天国と地獄”を目前にしていた。 12inchシングル「Back...
View Articleキース・リチャーズ〜“逃亡先”で生まれた最高傑作
ブライアン・ジョーンズの死やオルタモントの悲劇など、激動の1969年を終えたローリング・ストーンズの次なる試練は、ずばり“金”だった。 驚くべきことにメンバー全員が破産寸前だったという。原因はバンドの財政を握っていた弁護士アレン・クラインとの金銭トラブル、そして当時のイギリスにおける高額な税金徴収にあった。...
View Article浅川マキ27歳〜新宿に惹かれた女、新宿が生んだアングラの女王
1969年、浅川マキは劇作家・寺山修司によってその才能と存在感を見出され、シングル「夜が明けたら/かもめ」で再デビューを果たす。 それは、彼女が27歳になった年の出来事だった。 学生運動、70年安保闘争という時代の中、彼女は「アングラの女王」と呼ばれるようになる。 そんな“再デビュー”に至るまで彼女はどんな日々を過ごしてきたのだろう?...
View Articleボノ27歳〜ヨシュア・トゥリーの大ヒット、アカデミー賞授賞式で語った印象的なスピーチ
1987年3月、ボノが27歳を迎える2ヶ月前にU2の5thアルバム『The Joshua Tree(ヨシュア・トゥリー)』は発表された。 前作『The Unforgettable Fire(焔-ほのお)』からの3年間、彼らはアフリカ救済、エイズ撲滅などのチャリティーイベントに参加して国際的な知名度を得つつあった。 『The Joshua...
View Articleウィルコ・ジョンソンとフェンダーテレキャスター〜喉から手が出るほど欲しかった憧れのギターを手に入れるまで
「そのテレキャスターはサウスエンドの楽器屋のショーウィンドウに陳列されていたが、とても手が出ないほどの高価だった。一般的な労働者階級の平均賃金が1週につき15〜20ポンドだった時代に、そのテレキャスターは107ポンドの値札をつけていた。俺は生まれて初めてこれほどまでに欲しいという対象に出会ってしまった。」 ウィルコ・ジョンソンの“相棒”と言えば、フェンダーテレキャスターである。...
View Articleブルース・スプリングスティーンとクラレンス・クレモンズ〜永遠のミッシング・リンク
ブルース・スプリングスティーンの自伝的作品「Tenth Avenue Freeze-Out」(『Born To Run』収録)にはこう歌われている。「ビッグ・マンがバンドに加わって、転機が訪れた」と。 ブルースとザ・ビッグ・マンことクラレンス・クレモンズの出会いは今や伝説だが、クラレンスは半分は作り話と認める愉快な自伝『Big...
View Articleクリス・クリストファーソン〜デビューするために“空から売り込み”をした男
ある日、自宅で昼寝をしていると、ジューンが叫んだ。『ヘリコプターが庭におりてくるわ!』 外に出ると、クリスがヘリコプターから出て来て僕に言ったんだ。『どうしてもこの曲を渡したかった』って。...
View Articleローリング・ストーンズを作った男、ブライアン・ジョーンズの死を悼んだ追憶のハイドパーク
ロンドン中心部に位置するハイド・パークに1969年7月5日、全英中から25万人以上もの若者が集まってきた。 その日はローリング・ストーンズにとって丸2年ぶりとなるコンサートが、フリー・ライブのかたちで予定されていた。 ギタリストであり創設者でもあったブライアン・ジョーンズが脱退し、新たなギタリストにミック・テイラーが加入することになったのでお披露目をかねていた。...
View Articleシド・バレットとロジャー・ウォーターズ〜“月の裏側の住人”となった男に囚われて
2005年7月2日、午後10時57分。ロンドンのハイド・パークに集まった20万人近い観衆を、聞き覚えのある不気味なサウンドが覆い始めた。一定に保たれた心臓の脈拍音が次第に大きくなっていく。そしてあの馴染みのある声が聞こえてきた。 もうずっと何年も、俺は気が狂いっぱなしなんだ……...
View Articleサム・クックとモハメド・アリ〜黒人公民権運動のもと、不思議な縁に導かれた二人のスター
1963年、サム・クック(当時32歳)は伝説のボクサー、モハメド・アリ(当時21歳)と初めて出会う。 この頃サムはすでに黒人R&Bヴォーカリストとして大スターの座を獲得しており、その人気ぶりはアリにとっても憧れの対象だったという。 一方アリはプロ転向して次々にタイトルマッチで勝利し、まさに“快進撃”を続けている時期だった。...
View Articleスティーヴン・タイラーとジョー・ペリー〜運命的な出会い、探し求め合っていた“ミッシングリンク”
「1964年から1970年までに俺が在籍したバンドには、足りないものが一つあった。必須の材料が欠けていたんだ。ジョーがその“ミッシングリンク”だった。ミックとキース、ピート・タウンゼントとロジャー・ダルトリー、キンクスのデイヴィス兄弟みたいな関係ってやつだ。」(スティーヴン・タイラー) 1970年代の初頭、イギリスのバンドがロックシーンを席巻していた。...
View Article木村充揮と内田勘太郎〜15歳の出会い、ブルースの魔力に惹かれていった二人
「内田と友達になって、どっちも好きな音楽が似とってね。そのうち内田の方がブルースにどんどんハマって行って、僕もだんだんブルースってええなぁと思うようになったんです。」(木村充揮) 1970年、木村充揮と内田勘太郎の二人は憂歌団を結成する。 バンド名は“ブルースバンド”の邦訳で、内田が考えたものだった。...
View Articleデヴィッド・ボウイとミック・ロンソン〜グラムロック創成期を築いた黄金コンビの出会い
デヴィッド・ボウイがグラムロックに傾倒した70年代、彼の横でGibsonレスポールをかき鳴らす金髪のギタリストがいた。 “ロノ”という愛称で呼ばれていたその男の名はミック・ロンソン。 彼はそれまで数々のバンドを渡り歩いた後、1967年にザ・ラッツというバンドに参加する。 そのバンドのメンバーの誘いで、ロノはデヴィッドと運命の出会いを果たす。 1969年、デヴィッドは2ndアルバム『Space...
View Article越路吹雪と岩谷時子〜宝塚時代から厚い友情を重ねつづけた二人の出会い
1939年の春、宝塚歌劇学校を卒業して初舞台を踏んだばかりの越路吹雪は岩谷時子と出会う。 「彼女が永眠するまで、ただ一度も争うことなく、時の流れと共に厚い友情を重ねてこれたのは宿縁としか考えようがない。」(岩谷時子) その年の秋、岩谷は宝塚歌劇団出版部へ就職し、社会人としてのスタートを切ったばかりだった。 宝塚ファンに向けて出版されている『歌劇』『宝塚クラブ』誌を編集するのが彼女の仕事だった。...
View Articleジム・モリソン27歳〜“終わりの歌”が放つ永遠の閃光
何もかもが、これで終わる これで終わりだ、美しき人よ これで終わり…ただ一人の友よ、終わりなんだ 自由は君を傷つける 君は決して僕にはついて来ない その微笑みも、心優しい嘘も…これで終わる 僕らが死のうとした夜も…これで終わる 何もかもが、これで終わる 1966年、23歳のジム・モリソンが書いた別れの詩だ。 この翌年、ザ・ドアーズが発表したデビュー・アルバム『The Doors』のラストに「The...
View Articleフレディ・マーキュリーの27歳~わずか半年で無名からロックスターへ
1973年9月5日、フレディ・マーキュリーが27歳の誕生日を迎えたのは、クイーンがファースト・アルバム『戦慄の王女』をリリースから2ヶ月が過ぎた頃だった。 アルバムにはドラマチックな展開やハイトーンなシャウトといったクイーンの特徴的なサウンドが現れていたが、批評家から酷評されてチャートインすることすら叶わなかった。...
View Articleニーナ・シモン27歳〜一夜にして彼女をスター歌手にした伝説のコンサート、その後一変した生活
1959年9月12日、当時26歳だった彼女はニューヨークのTown Hallで初のホールコンサートを成功させる。 それまでクラブでの活動が中心だった彼女にとって、このステージは大きな転機となった。...
View Article一本の電話〜最後のレコーディング
「仕事をくれ、そうしないと死んでしまいそうだ…」 プロデューサーのリック・ルービンが握り直した受話器の向こうで、重くうちひしがれた声が聞こえた。 電話の主の最大の魅力でもある“低く艶のあるバリトンボイス”とは似て非なる渇いた声に、 リックはかける言葉も見つけられないまま頷くしかできなかった。 2003年5月15日、ジョニー・キャッシュの最愛の妻ジューン・カーター・キャッシュが天国に旅立った。...
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