ロッド・スチュワート27歳〜True Blueに込めた自信と自嘲〜
1972年、ロッド・スチュワートはフェイセズに加入して3年目を迎えた。 1月10日生まれのロッドは、年明け早々に27歳になった。 当時、フェイセズは2ndアルバム『Long Player』のセールスを着実に上昇させながらアメリカツアーを終え、イギリスに戻ってきたばかりだった。 その頃のフェイセズの人気といえば、アメリカの2万席あるスタジアム公演が、ほんの数日間で売り切れるほどの人気だった。...
View Articleピート・タウンゼンド〜真冬のコテージで綴り始めた『四重人格』
1973年初め。暗く冷たい、冬の週末の夜。 27歳のピート・タウンゼンドは自宅のコテージに一人座り、逆巻く川や隙間風の音を聞きながら記憶の旅に耽っていた。ここ数ヶ月もの間、家族や友人、バンドとステージにいる時でさえ、新しく生まれつつある“音楽と物語”のことが頭と心から離れない。しかし、今夜は違った。...
View Articleドン・ヘンリーとグレン・フライ〜相手に託した成功への歌声
1970年、ウェストハリウッドのクラブ、トルバドゥールのバーには、成功を夢見る若きミュージシャンたちが毎晩たむろしていた。 その中にグレン・フライとドン・ヘンリーもいた。グレンはJ・D・サウザーとのデュオ、ロングブランチ・ペニーウィッスルで、ドンはテキサス出身のバンド、シャイロの一員として、同じエイモス・レコードからアルバムを発表していたが、どちらもまったく売れなかった。...
View Article夢見るシャンソン人形から脱却して国民的歌手へと返り咲いたフランス・ギャル
1960年代に日本でもブームとなったフレンチポップス。 その中心にいたシルヴィ・バルタンが1965年に来日を果たしたときには、空港に千人ものファンが押し寄せる騒ぎになった。 さらにはCM「レナウン イエイエ」にも起用されるなどで、日本人にも身近に感じられたこともあって高い人気を集めた。...
View Articleカール・パーキンス〜男の美学が生んだ名曲
ジョニー・キャッシュとカール・パーキンスは、ともに55年にサン・レコードからデビューする。キャッシュがすぐに「Cry Cry Cry」のヒットを出したのに対して、パーキンスは当初ヒットに恵まれなかった。舞台ではエルヴィスより受けるときもあったパーキンスをキャッシュが褒め称えると、彼はこぼした。 「でも、あいつにはヒット・レコードがあって、俺にはないんだ」...
View Articleエディット・ピアフ27歳〜ユダヤ人作曲家との戦火の恋、運命のメロディーPadam Padam
稀代のシャンソン歌手、エディット・ピアフ。 本名はエディット・ジョヴァンナ・ガシオン。 1915年12月19日、彼女はパリ20区の貧しい地区ベルヴィル街で生まれた。 父親は大道芸人で、母親はカフェや酒場などで歌う歌手だった。 幼少期は孤独で、親戚から親戚へと転々とし、祖母の経営する売春宿で育てられた時期もあったという。...
View Article越路吹雪27歳〜“宝塚のシミ”は、洗ってもこすっても簡単に消えるものではなかった〜
“日本のシャンソンの女王”と呼ばれた稀代の歌手、越路吹雪。 彼女は、昭和12年(1937年)に13歳で宝塚歌劇学校に入った。 日中戦争が起き、日本は大陸侵略戦争に突っ走っていた頃だった。 そんな戦中から戦後、彼女は宝塚の男役スターとして活躍する。 そして彼女は昭和26年(1951年)27歳の時に宝塚を退団し、東宝専属の女優として主にミュージカルなどに出演するようになる。...
View Articleフリートウッド・マック〜二組のカップルの破局から生まれた歴史的ベストセラー『噂』
それは、新しいメンバー探しをしていたミック・フリートウッドに、プロデューサーのキース・オルセンが自分が手掛けた無名デュオのアルバム『Buckingham Nicks』を聞かせたことがすべての始まりだった。...
View Articleマヘリア・ジャクソン27歳〜短い結婚生活を経て確信したゴスペルへの想い、そして美容院と花屋の開業
アメリカの音楽史において“ゴスペル界最高峰の歌手”として君臨した伝説の黒人歌手マヘリア・ジャクソン。 1911年、ルイジアナ州ニューオーリンズにあるウォーター街で生まれた彼女は、貧しい環境で育ちながら教会で唄い始める。 7歳の時に母を失い、歌で食べていけるようになるまでには、メイドや洗濯など様々な仕事を経験したという。...
View Article萩原健一27歳〜ドラマや映画での大活躍を経て、新たに音楽活動を再開させた転換期
唯一無二の個性を持った俳優/シンガーとして愛されている男、萩原健一。 “ショーケン”の愛称で親しまれている彼は、16歳の頃に地元の埼玉県でスカウトされて、当時に人気グループだったザ・スパイダースの弟分的なバンドだったザ・テンプターズのボーカリストとしてデビューを果たす。 「神様お願い!」「エメラルドの伝説」などヒット曲を連発し、その個性的な歌声とカリスマ的な魅力を武器に人気を集めていた。...
View Articleジョン・ベルーシとダン・エイクロイド〜旅と悲しみから生まれたブルース・ブラザースの絆
俺たちはそろそろ作られた道化はやめるべきだ。俺たち自身が楽しめてその役になりきれる。そんなことをやろうぜ、ダニー。俺はお前と一緒に何かやりたいんだ。何かこう最高にハッピーなれることを!...
View Articleキース・リチャーズとミック・ジャガー〜ストーンズ最大の危機と孤高の響き
「何年も続いていた状況がとうとう来るところまで来た。ミックが何もかも支配したいって欲求に取り憑かれたことだ。あいつにしてみりゃ、ミック・ジャガーと“その他大勢”だった。俺を含めたバンドの他のメンバーは、もうみんな雇われ人だ。長年一緒にやってきた俺たちにまでそうなったら、もうおしまいだ」...
View Articleジョン・コルトレーン27歳〜何かを探しあぐねていた無名の下積み時代
モダンジャズ界サックスの巨人、ジョン・コルトレーン。 1950年代の終わりころから一気に花を咲かせて疾風のごとく通り過ぎていってしまった男である。 もう一人の巨人、マイルス・デイヴィスとは良く知られている通り同年齢だった。 彼とマイルスは29歳の頃から約5〜6年に渡って同じバンド(第一期マイルス・デイヴィス・クインテット)でプレイをしていた時期もあった。...
View Articleエリック・クラプトン〜愛の告白の失敗と悲劇に取り憑かれた数年間
「人生が深刻な下降線をたどっていった時期の始まりだった」 ──エリック・クラプトンは自らの1970年の後半をそう語った。...
View Articleジョニー・キャッシュ〜“本物”を伝え続けた奇跡のTVショー
「俺はここ以外で、やらないよ」 ジョニー・キャッシュは自身の名前がつけられたTVショーの収録会場について話し合っている時、キー局のお偉方にそう言い放った。“ここ”とは、ナッシュビルのライマン公会堂。『グランド・オール・オプリー』の本拠地であり、“カントリー・ミュージックの聖地”と言ってもいい場所だった。 当時のキャッシュは、刑務所でのライブアルバム『At Folsom...
View Articleジョー・ストラマーとミック・ジョーンズをつないだ中国の占い
ジョー・ストラマーとミック・ジョーンズが初めて言葉を交わしたのは、1976年4月3日だといわれている。 ジョーが当時組んでいたバンド、101ers(ワン・オー・ワナーズ)のライブを観に行ったミックは「バンドはひどいが、お前のことは気に入った」とジョーに声をかけたそうだ。 当時、ミック・ジョーンズは新しいバンドの結成に向けてリード・シンガーを探していた。...
View Articleマール・ハガード〜死刑囚の心の風景を想って作った伝説の歌
正直言って、それは俺が人生で初めて見た太陽の光だった。ジョニーは俺たち囚人に、子供の頃に教えられた素朴な信仰心を思い出させてくれんたんだ マール・ハガードが初めてジョニー・キャッシュのステージを観たのは、サンフランシスコのサン・クエンティン刑務所の中。1958年の元日に行われた慰問行事でのことだった。...
View Articleセロニアス・モンク27歳〜無名時代に経験した不当逮捕、バド・パウエルのために書いた曲
ジャズ史を語る上で外すことのできない男、セロニアス・モンク。 奇矯な言動やファッションで人を惑わし、深い精神の病を患っていた男だったが、何より独創的だったのは、他ならぬそのピアノ演奏だった。 1940〜1960年代まで黄金期を迎えた“モダンジャズの時代”において、独特のタイム感とコード感、そして休符の目立つ旋律などで、新風を巻き起こした人物である。...
View Article吉田拓郎27歳〜突然降りかかった虚言による逮捕スキャンダルと、心ないマスコミのバッシングに堪えた日々
60年代後半から70年代と言えば…燻りつづける学園紛争の熱と共に、若者たちの間ではベトナム反戦、安保反対の嵐が吹き荒れていた。 そんな時代を背景に、若者たちが“フォークの神様”と崇めたのは岡林信康だった。 当時、“反体制の英雄”として祭り上げられた岡林を、新聞は芸能欄ではなく社会面で取り上げていたという。 岡林を中心とする関西フォーク勢は、演歌や歌謡曲にはない思想性を持つようになる。...
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