加藤和彦との結婚、そしてサディスティック・ミカ・バンドの誕生
京都の平安女学院に通っていた福井光子(ミカ)が、加藤和彦と出会ったのは高校2年生、17歳の秋のことだ。 龍谷大学の学生だった加藤はザ・フォーク・クルセダーズのメンバーだったので、京都の若者たちの間ではちょっとした人気者になっていた。...
View Articleエミネムの27歳〜魂と引き換えに獲得した栄光
「“8マイル”は、デトロイトにあるシティと郊外を隔てているラインのこと──金持ちと貧乏人、肌の色──デトロイトっていう街が持つ人種のボーダーラインを象徴している。その両側を見て育って、いつもその狭間でどっちつかずの状態に陥ってる自分のことを、俺はどこかで恥じていた。自分が住んでいる地域のこと、自分が白人であること……」...
View Articleマレーネ・ディートリヒとバート・バカラック〜56歳と29歳、年の差ベストパートナーとの運命的な出会い
「彼は爆発する火山のようなエネルギーで私の持ち歌を編曲し、本格的なコンチェルトに変えたわ。あの頃の私たち二人は最高のステージを作るためだけに生きていた。」 1939年、マレーネ・ディートリヒ(当時38歳)は正式にアメリカの市民権を取得する。 その後40代となった彼女は、第二次世界大戦が激化してゆく中、ヨーロッパ各地の前線でナチスドイツと戦う連合国兵士の慰問を積極的に行なう。...
View Articleキース・エマーソン27歳〜ELPの成功、高額な収入と裏腹に増してゆく自分への違和感
1970年、当時26歳だったキース・エマーソンは、元キング・クリムゾンのグレッグ・レイク、アトミック・ルースターのカール・パーマーとエマーソン・レイク・アンド・パーマー (ELP) を結成する。 同年の11月、著名なバンドで名を知られたメンバーが集結したELPのデビューアルバム『Emerson, Lake & Palmer』が、リリース直後に全英チャート4位、全米チャート18位を獲得する。...
View Articleニール・ヤングとクレイジー・ホース〜特別な場所への乗り物
ニール・ヤングは詩神の導くままに音楽活動を続け、次の行動が読めない男として有名だが、クレイジー・ホースと組んで動き出すときは、何か特別なことが起こる。ファンの多くがそう信じている。...
View Articleキース・ジャレット27歳〜名盤『Facing You』がもたらした新たなターニングポイント
キース・ジャレット。 一般に“ジャズピアニストの巨人”の一人として広く認識されている彼だが、実はピアノだけにとどまらず、ソプラノサックス、パーカッション、ハープシコード、リコーダーなど様々な楽器を巧みに操る“天才肌アーティスト”なのだ。 ジャズはもちろんのことクラシックからボブ・ディランの楽曲までジャンルを超えた音楽表現を身上とする。 そんな彼が27歳の時に『Facing...
View Articleレナード・コーエン27歳〜輝き始めた希代の詩人
自由を追い求め…恋多き人生を歩んできた男、レナード・コーエン。 彼が“詩人”としてのキャリアをスタートさせたのは大学時代だった。 カナダの名門公立大学に通いながら詩を書き始めた彼は、同時に恋にも目覚める。 そして恋をするたびに新しい詩が生まれた。 彼の“自由”を求め続ける恋多き人生は、この時期から本格的に始まった。 当時、彼は恋愛についてこう語っている。...
View Articleキース・リチャーズとミック・ジャガー〜ストーンズ最大の危機と孤高の響き
「何年も続いていた状況がとうとう来るところまで来た。ミックが何もかも支配したいって欲求に取り憑かれたことだ。あいつにしてみりゃ、ミック・ジャガーと“その他大勢”だった。俺を含めたバンドの他のメンバーは、もうみんな雇われ人だ。長年一緒にやってきた俺たちにまでそうなったら、もうおしまいだ」...
View Articleオノ・ヨーコ27歳〜日本を代表する財閥の“お嬢様”だった彼女が経験した貧しい結婚生活、前衛芸術家としてキャリアをスタートさせた頃
「夫を追って日本に帰るべきか、ここにとどまるべきか…27歳の私は葛藤と同時にニューヨークでの成功が間近に迫っているかもしれないという予感も感じていました。」 彼女は小野英輔・磯子の長女として、東京で生まれた。 父親は日本興業銀行総裁を務めた小野英二郎の子であり、ピアニストから銀行員に転じ、彼女が生まれた時は横浜正金銀行のサンフランシスコ支店に勤務していた。...
View Articleティナ・ターナー27歳〜フィル・スペクターとの出会い、ローリング・ストーンズとのツアー、そしてアイクとの不和の始まり
1960年代の中頃、アイク&ティナ・ターナー・レビューはアメリカにおいて国民的人気を獲得していた。 ティナが27歳を迎えた1966年、彼らはフィル・スペクターのフィリーズレコードと契約を交わしシングル「River Deep – Mountain High」をレコーティングする。 当時破格と言われた金額(25,000ドル)が提示されたその契約には、たった一つだけ条件がつけられた。...
View Articleスティーヴィー・ワンダー27歳〜尊敬するジャズの巨人に捧げた最高の音楽讃歌
1977年6月、27歳になったスティーヴィー・ワンダーはビルボード誌が後援したUCLAでのシンポジウムに出席し、こんな発言している。 「あの曲名は最初から思いついていたけど、曲の中ではいろんなミュージシャンを採り上げようと思っていた。素晴らしい仕事を遺したミュージシャンはたくさんいる。でも、すぐに忘れられがちだ。僕は自分の感謝の気持ちを示したかったんだ。」...
View Articleバルバラ27歳〜パリの名門キャバレーとの契約、様々な芸人たちの名演名唱に触れる日々、黒い衣装との出会い
常に黒い衣装に身を包んで歌った孤高のシャンソン歌手、バルバラ。 平和主義者で、エイズ撲滅運動の運動家でもあった彼女。 自伝『それは黒いピアノだった…未完の記録』を執筆半ば、1997年アメリカの病院で呼吸器系の病気のため67歳で死去した。 彼女は1930年にパリで生まれた。 幼少期の頃、彼女の住んでいたパリはナチスの占領下となり、日々死の恐怖に怯えながら暮していたという。...
View Articleボノ27歳〜ヨシュア・トゥリーの大ヒット、アカデミー賞授賞式で語った印象的なスピーチ
1987年3月、ボノが27歳を迎える2ヶ月前にU2の5thアルバム『The Joshua Tree(ヨシュア・トゥリー)』は発表された。 前作『The Unforgettable Fire(焔-ほのお)』からの3年間、彼らはアフリカ救済、エイズ撲滅などのチャリティーイベントに参加して国際的な知名度を得つつあった。 『The Joshua...
View Articleシド・バレットとロジャー・ウォーターズ〜“月の裏側の住人”となった男に囚われて
2005年7月2日、午後10時57分。ロンドンのハイド・パークに集まった20万人近い観衆を、聞き覚えのある不気味なサウンドが覆い始めた。一定に保たれた心臓の脈拍音が次第に大きくなっていく。そしてあの馴染みのある声が聞こえてきた。 もうずっと何年も、俺は気が狂いっぱなしなんだ……...
View Articleロイ・オービソン〜泣いた男たちの果樹園
「どっちにしても君は歌が下手だし、弱々しい声だから、聴衆がよく聞こえるようにマイクに近づいて歌うことだな」 デビューのきっかけとなったサンレコードを辞めて他のレコード会社に移籍する際、ロイ・オービソンはレーベルの社長であるサム・フィリップスからきつく当たられた。おとなしく控えめな男だったオービソンは、ご丁寧にもその“助言”通りに歌って、皮肉にも本当の成功を掴む。...
View Articleトム・ウェイツ〜最大のヒーローへ贈った曲
トム・ウェイツは10歳のときに両親が離婚したため、母と姉2人とサンディエゴに引っ越す。父の不在の寂しさをまぎらわせてくれたのは彼のくれたラジオで、そのスピーカーからはカントリー音楽が頻繁に流れてきた。30年代の大恐慌以降、中西部からたくさんの人びとが仕事を求めて移住したので、南カリフォルニアでは彼らの嗜好を反映してカントリー音楽の人気が高かったのだ。...
View Articleジョン・レノン27歳〜敏腕マネージャーの死、インド哲学への傾倒、そしてヨーコとの関係を深めていく日々〜
1967年10月9日、ジョン・レノンは27歳の誕生日を迎えた。 この頃のジョンは深い悲しみの中にいた。 “ビートルズを売り出した男”として知られる男、敏腕マネージャーのブライアン・エプスタインはロンドンの自宅のベッドの上で死体となって発見されて…まだ2ヶ月も経っておらず、ビートルズは混乱と不安を抱えながら日々を過ごしていた。 ブライアンがこの世を去った1967年8月27日。...
View Articleオーティス・レディング〜フェードアウトしていく口笛に残された「未来」
1967年12月10日、バーケイズのメンバーとともにツアー中だったオーティス・レディングは、次の公演地であるウィスコンシン州マディソンへと向かう途中、自家用飛行機の墜落事故により還らぬ人となった。享年26。同年6月に出演した〈モントレー・ポップ・フェスティヴァル〉でのパフォーマンスが高い評価を得て、人種の壁を越え、今まさにスターダムへとのし上がろうという矢先の悲劇だった。...
View Articleサム・クックとモハメド・アリ〜黒人公民権運動のもと、不思議な縁に導かれた二人のスター
1963年、サム・クック(当時32歳)は伝説のボクサー、モハメド・アリ(当時21歳)と初めて出会う。 この頃サムはすでに黒人R&Bヴォーカリストとして大スターの座を獲得しており、その人気ぶりはアリにとっても憧れの対象だったという。 一方アリはプロ転向して次々にタイトルマッチで勝利し、まさに“快進撃”を続けている時期だった。...
View Articleうつとドラッグにもがき苦しんだ「失われた数年間」 〜ジョン・フルシアンテの27歳〜
「ドラッグは、この世に存在する醜いものに俺の魂を占領させず、美しいものだけに触れていられるようにする唯一の方法なんだ」...
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