母のブルースをポップスに昇華させたシンガー・ソングライターの宇多田ヒカル
「歌手は一流でなければ嫌、私は自分を取り戻すために、英語の勉強から始めます」 27歳で歌手を引退することを決めていた藤圭子は、こんな率直なコメントを残して1979年にニューヨークへ渡った。(注1) やがてニューヨークに住む日本人の宇多田照實と出会い、結婚して長女の光が誕生したのは1983年のことだ。...
View Articleサイモン&ガーファンクル〜世界の頂点、更なる冒険
1968年、サイモン&ガーファンクルは“世界の頂点”にいた。 その年に彼らは映画『卒業』のサントラとアルバム『Bookends』の2枚を全米ナンバーワンにしていた。当時の彼らはフォーク音楽の領域を超えて、「ビートルズを追いかけて、創造的で素晴らしいレコードを作ろうとしていた」が、ポール・サイモンはこう振り返っている。...
View Articleマイケル・スタイプ(R.E.M.)〜カレッジ・バンドからの脱皮
1987年、R.E.M.のアルバム『Document』は初の全米トップ10入りを果たし、「The One I Love」も全米第9位のヒットとなる。 R.E.M.は1981年のデビュー以来、カレッジ・ラジオを結ぶネットワークの成長に助けられて「カレッジ・ロック」とも呼ばれた新世代バンドの代表的存在として、大学生を中心に熱烈な信奉者を増やしてきた。...
View Articleどんとの27歳~絶頂の日に起こった転落事故
どんと(久富隆司)は1962年8月5日、岐阜県大垣市で生まれている。 小学生のどんとはテレビの歌番組を見るのが一番好きで、1969年から70年にかけて始まった歌謡曲の黄金時代を体験したことで、歌をうたうことの喜びを知った。 尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が発売になったのは1971年3月5日、ヒットしたのはその年の春から夏にかけてのことだ。...
View Articleスティーヴィー・ニックス〜幸運が運んできた別離
1975年5月26日、27歳の誕生日を迎えたスティーヴィー・ニックスは前年の同じ日を思い浮かべ、その1年のもたらした大きな変化を噛み締めていたはずだ。 1年前の彼女は、薄給のウェイトレスやプロデューサーの家の掃除といった仕事で生活費を稼ぐ、苦闘するミュージシャンだった。...
View Articleフリートウッド・マック〜二組のカップルの破局から生まれた歴史的ベストセラー『噂』
フリートウッド・マックと『噂』 それは、新しいメンバー探しをしていたミック・フリートウッドに、プロデューサーのキース・オルセンが自分が手掛けた無名デュオのアルバム『Buckingham Nicks』を聞かせたことがすべての始まりだった。...
View Articleゲイリー・ムーア〜故郷アイルランドへの想いと盟友フィル・ライノットに捧げた別れの響き
ゲイリー・ムーアとフィル・ライノットに流れたアイルランドの血 僕はアイルランドで生まれ育ったんだ。その影響を生かして一つのアルバムを作りたかった。自分が今まで無意識のうちに受けてきた影響を前面に出して、これまでの僕のアルバムとはまったく違ったものを作り出したかった。 1987年、ゲイリー・ムーアは故郷アイルランドをテーマにした『Wild...
View Article27歳で訪れていたキャロル・キングにとってのターニングポイント
ニューヨークの南端にあるリゾート地のコニー・アイランドで、後にキャロル・キングと名乗る少女が初めてレコーディングしたのは1945年、わずか3歳の時のことだ。 観光客用の小さなスタジオで、父と母の3人で小さな録音ブースに入り、ぎゅうぎゅう詰めになって家族の声をレコード盤に残した。 わたしの名前はキャロル・ジョーン・クライン、ニューヨーク州ブルックリン東24番街2466に住んでいます。...
View ArticleNHK交響楽団にボイコットされて窮地に立った27歳の小澤征爾を救った仲間たち
1959年にたった一人でヨーロッパに向かった小澤征爾は、第9回ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位になり、翌年はカラヤン国際指揮者コンクールでも第1位となった。 そしてカラヤンに師事した後、1961年からニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の副指揮者に抜擢された。 日本の若者が世界のクラシック音楽の檜舞台で活躍し始めたことは、音楽ファンや関係者だけでなく、社会的な関心も集めることになった。...
View Article世界の音楽家となる武満徹の原点にあったシャンソンと現代音楽、ジャズ、そして歌謡曲
西洋音楽の世界で最も有名な日本人作曲家、武満徹が東京の本郷で生まれたのは1930(昭和5)年10月8日のことだ。 生後1ヶ月で保険会社のサラリーマンだった父の勤務先、満州の大連に渡った武満だったが、6年後に内地の小学校に入るため一人で帰国した。 そして東京の叔父の家から小学校に通った。 父はジャズと社交ダンスが好きなだけでなく、玄人はだしで周囲にダンスを教えたりもしていたそうだ。...
View Articleスパイダースとビートルズに出会ったかまやつひろしの快進撃は27歳になると同時に始まった!
かまやつひろしはもともとカントリー好きで、ハンク・ウィリアムス以下ひと通りのものは聴いてから、自分でも歌い始めた。 1958年に始まったロカビリー・ブームのなかから音楽シーンに出てきたのはめぐり合わせで、初めからロカビリーはどこか苦手だったという。 ただ、エルヴィスの登場には「すごいのが出てきたなぁ」と感心した。 エルヴィス・プレスリーの登場がショッキングな出来事だったことはたしかだ。...
View Articleジョン・ベルーシとダン・エイクロイド〜旅と悲しみから生まれたブルース・ブラザースの絆
マンハッタンの秘密基地とブルース・ブラザース 俺たちはそろそろ作られた道化はやめるべきだ。俺たち自身が楽しめてその役になりきれる。そんなことをやろうぜ、ダニー。俺はお前と一緒に何かやりたいんだ。何かこう最高にハッピーなれることを!...
View Articleレスター・ヤング 27歳〜ビリー・ホリデイとの出会い、死が二人を分かつまで続いたプラトニックな関係
1937年、レスター・ヤングは27歳の時にビリー・ホリデイ(21歳)と出会う。 彼が当時在籍していた“カウント・ベイシー・オーケストラ”に、彼女もたびたび参加するようになっていたのだ。 彼は親しみを込めて、彼女に“レディー・デイ”という愛称をつけた。...
View Articleヴァン・モリソン〜奇蹟を起こす人
スタジオは奇蹟を起こすための場所なんだ。だから、それが出来ないときは行かない。 こう語るヴァン・モリソンの言葉に、若い頃ひどく感銘を受けた。...
View Articleチャック・ベリー27歳〜順風満帆な新婚生活、運命を変えたマディ・ウォーターズからの一言
ボ・ディドリーやリトル・リチャードと並び“ロックンロールの創始者の一人”として知られているチャック・ベリー。 ロックが好きならば彼の名を知らない人はいないだろう。 ビートルズのジョン・レノンが「ロックンロールに別名を与えるとすれば“チャック・ベリー”だ」と発言しているほど、後進のロックアーティストたちに多大な影響を与えてきた彼。...
View Articleニック・ロウ〜新曲は義父へのプレゼント
「ねえ、ニックがパパのために書いた曲を聴きに来てよ」 ニック・ロウは妻のカーリーン・カーターが父親と電話で話す声で目を覚ました。 電話の相手はカントリー音楽の巨人ジョニー・キャッシュである。義父は既にニックの「Without Love」を取り上げていたが、ニックは新曲を書き下ろしたかった。そしてキャッシュにぴったりと思う歌詞の冒頭を思いついた。 俺の中の獣がもろく壊れやすい檻の中に入れられている...
View Articleキング・オブ・ロックンロール・フォトグラファー、写真家ジム・マーシャルの哲学
ビートルズが最後のコンサートを行なったのは1966年8月29日、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークだった。 その模様をカメラに記録したのが、ジム・マーシャルだ。ジムはビートルズ最後のコンサートでバック・ステージに入ることを許可された、ただ一人の写真家だった。...
View Articleうつとドラッグにもがき苦しんだ「失われた数年間」 〜ジョン・フルシアンテの27歳〜
「ドラッグは、この世に存在する醜いものに俺の魂を占領させず、美しいものだけに触れていられるようにする唯一の方法なんだ」...
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